天長地震後1200年(1)秋田城

天長地震後1200年

 

 有史以来秋田県周辺において発生したマグニチュード(M)6以下を含めた39回の被害地震の中で830年に起こった天長地震は最も古いものである。地震の規模はマグニチュード7.0〜7.5の直下型地震であった。

 天長地震は天長7年(830年)1月3日朝、秋田城を通り、北東に北5km付近の震央を持った大地震であった。一瞬にして城郭が崩壊、城内の建物も倒れた。死者や負傷者も出た。城の近くを流れていた雄物川や上流の旭川や太平川にも災害が発生した。また、近くの丘陵地である勝平山も災害を受け、山麓に作られていた集落が根こそぎ崩壊した。大雪の降る中での大惨事であった。

 

三が日天変地異の秋田城      秀法

 

余りにも長き試練や雪の出羽    秀法

 

 天長地震の発生以来、約1200年が経過したが、今もって地域の人々の生活や文化など多岐にわたって大きな影響を与えている。本シリーズでは先ずもって秋田城と天長地震を取り上げます。

 

風化せぬ地震ありけり雪の出羽   秀法

 

 秋田城

 

 秋田城は奈良時代から10世紀中頃までの平安時代にかけて現在の秋田県秋田市に設置された古代城柵であった。

 秋田城の創建は、天平5年(733年)に出羽柵が庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことにさかのぼり、その後天平宝字年間に秋田城に改称され、出羽国北部の行政・軍事・外交・文化の中心地としての役割を担った。

 

若葉萌ゆ太平望む秋田城     秀法

 

 

囀りの響く園内夢の跡      秀法

 

 

高清水水面に映るさつきかな   秀法

 

 

 秋田城の構造

 

 

 外郭東門

 

 

 政庁門

 

  

 政庁跡地

 

 

 政庁第1期復元模型(733年~770年頃)

 

 

 東北地方の日本海側に位置する秋田城は、大和朝廷によって設置された城柵の中で最北に位置し、律令国家による統治の拠点として津軽・渡島(わたりしま)の蝦夷との交流や渤海国との外交の拠点として重要な役割を果たした。

 

 渤海国との交流遺跡・復元された水洗厠舎

 

 

 古代水洗厠舎跡・検出寄生虫卵

 

 汚物を溜める沈殿槽からいろいろな寄生虫卵が見つかっているが、中でも豚の摂食で感染する有鈎条虫卵がまとまって見つかっている。これは当時の日本にはない豚食を習慣とする大陸の人々が秋田城を訪れていた可能性を示している。渤海使がこのトイレを使用していた可能性があり、秋田城が外交施設の役割を果たしていたことを示している。

 


  

 天長地震

 

 天長7年(830年)正月28日京都に届いた出羽国からの報告によると、年明け早々の3日朝に秋田城に大地震が起こった。一瞬にして城郭は崩壊し、城内の建物は倒れ、死者15人、負傷者百余人に及んだ。倒れたものの中には、四天王寺や四王堂もあった。秋田河といわれた雄物川も河底が裂けたらしく水は細流となった。それには、上流で当時添河・覇別川といわれた支流の旭川や太平川が両岸崩れて水を堰き止めてしまったことも関係していた。

 大雪の降る中での惨事で、詳細を調査確認することはできなかったが、出羽では前年の11月から疫病が流行していて、一家枕をならべて床に伏し看病する者がなかったり、一家そろって死去したりする状況であったところへの天災であったから、城司や国司らが困惑し憂慮しただけでなく朝廷も大きな衝撃を受けた。

 淳和天皇は4月25日詔を発して、「聞くところ、出羽国には震災があって、山河は変わり、城宇はこわれ、人々は死傷し、住民は悲運にあっている。それ故、使臣を特派して撫育に当たれ、住民が居住や生業に震災の影響を受けている場合には、使臣と出羽在住の官吏とが協議して処理し、当年の祖・調を免じ、さらに班田農民たると蝦夷たるとを問わず、公の倉を開いて賑給し、また家屋の修復を助け、職を失わせるようなことのないようにせよ。圧死した者は早く埋葬してやり、つとめて寛恩を施し、朕の意を叶えるようにせよ」と命令した。

 正月の地震は単に狭い秋田城域だけでなく、秋田地方に広く被害を与えたものであったことが判明した。疫病はなお流行し、諸国で精進僧20人以上を選んで国分寺で三日間の読経を行わせたりしなければならなかった。

 

 勝平

 

 日本海と雄物川の間の砂丘地にある丘陵、勝平山の麓は縄文時代の昔から開かれ、奈良時代には先人たちが住み着き、集落をつくって恵まれた自然環境の下で漁や狩りをしながら、春には山菜、秋にはキノコや木の実を採取しながら生活を営んでいた。

 さらに、平安時代初期には、日吉神社や勝平神社の祭りごとに参加し、勝平寺の彼岸会などの行事にも参加していた。

 ところが、天長7年(830年)の正月、この平和郷を根こそぎ崩壊させる大地震に遭遇し、住民は勝平を去り、少し南の方に移住して現在の新屋のもとをつくった。

 

 秋田公立美術大学

 

 平成25年(2013年)に秋田公立美術工芸短期大学が4年制大学移行によって設置された大学である。

 東北地方の公立大学では唯一の美術系大学であり、美術学部のみを有する単科大学である。

 秋田市新屋大川町に設置されたことから、秋田城跡、勝平山、雄物川放水路などが一望される。

 

 

秋田国際俳句ネットワーク

蛭田秀法

 

参考資料

 

・『秋田の歴史』 改訂版 新野直吉(著) 

発行所 秋田魁新報社

・秋田城とは?

秋田市観光文化スポーツ部 秋田城跡歴史資料館

・最北の古代城柵官衙遺跡 秋田城

・秋田県における主な地震(1949年以前)

・秋田公立美術大学

 

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